第一章 声という武器
私は腕っぷしが強くない。
勉強に関しては中の上くらいだろう。
人より優れている点は、
知能と、それを具現化する「言葉」を巧みに操ることだった。
まさに「言葉」は私にとってかけがえのないものだった。
そういった意味で、「声」は私の武器だった。
さながら古代中国の連衡、縦横を説いた弁士の様だった。
営業時代、ホテルでの勤務経験が功を奏したのだろう。
丁寧で柔らかな言葉遣い。
時には攻めの姿勢に、攻められていると思っていると静の対応に。
そして、私には営業マン独特の殺気がない。
それらを具現化するものが「声」。
私の声は大きくはない。
だが、静かで温かみがあると言われた。
熱を帯びながらも、相手を刺すことなく包み込む。
強い言葉を放つときも、どこかに“温度”が残るよう意識していた。
冷たく響かせれば相手は防御を固める。
だが、温かい声は、相手の心を溶かす。
それが私の戦い方だった。
後は、直観と本能で表情、空気、沈黙。
間合いを読み、もっとも深く刺さる提案を放つ。
まさに「声」こそが勝利に導く武器なのだろう。
武器というものをさらに昇華させた「刃」なのかもしれない。
交渉相手は、経営者、理事長など、
決裁権を持つ百戦錬磨の強者ばかり。
後半は大手企業の担当者とも渡り合った。
何万という人々を相手に戦い、
流れた血が自分のものなのか、
返り血なのかも、もはや分からなかった。
その血は、大河のように流れ続けた。
第二章 兆候
幾度となく勝利をもたらした声が、揺らぎ始めた。
2024年末。
喉に違和感が生まれた。
食事のたび、水を飲むたびに、
微かな痛みが走る。
最初は風邪だと思った。
だが、正月を越える頃、
その異変は確かな形を帯びていった。
私は毎日歩く。
金閣寺から竜安寺、仁和寺、妙心寺へ。
いつもの景色、いつもの時間。
静かな巡礼——
いや、思考の道程でもあった。
だが、水を飲むたびに疼きが増す。
胸の奥がひんやりと冷える。
その冷たさは、戦場で何度も嗅いだ「負け筋」の匂いに似ていた。
知略と直観、本能で生きてきた。
本能と直観が、前兆を告げている。
第三章 静寂への足音
ウオーキングコースにある金閣寺近くの耳鼻科へ行った。
喉だけでなく、右耳に鋭い痛みが走ることもあった。
鼻から喉へ細いカメラが入れられる。
モニターを見つめる女医の表情が曇る。
私は先に言った。
「……癌でしょ?」
医師は静かに頷いた。
詳しくは大きな病院で検査を、と。
京大病院を紹介された。
何度か命を救われた場所だった。
検査結果は、咽頭癌と食道癌。
咽頭癌はステージⅣ。
その瞬間、「死んだな」と思った。
だが、死の恐怖は薄かった。
第四章 暗闘
治療方針は明確だった。
まず咽頭癌を叩く。
食道癌は後回し。
2024年の春先から、私は入退院を繰り返し、
静かな戦場へ通い続けた。
放射線治療は痛みも音もない。
ただ横になり、淡々と光を浴びるだけ。
だが、その静けさこそ本当の暗闘のはじまりだった。
咽頭癌は進行度「StageⅣ」。
照射は容赦なかった。
言語聴覚士がついた。
若い女性だった。
最初の役割は、腫れた喉でも飲み込みやすくする訓練だった。
舌や喉をほぐす体操、姿勢、呼吸。
20分ほどの短い時間でも、毎日のように顔を合わせた。
治療前、まだ声が出ていた頃の私を知る、数少ない医療者のひとりだった。
最初は世間話が多かった。
病室では患者同士が言葉を交わす機会は少ない。
ただ他者と日常を共有するだけで、
生きている実感が、
ほんの少し戻ってきた。
初回入院中はまだ大きな変化はなかった。
だが、次の入院──
放射線の蓄積が本性を現した。
口腔内が腫れ上がり、喉も炎症で膨れ、熱を持って軋み出す。
痛みは、刺すようでもあり、焼かれるようでもあった。
咽頭は上・中・下に分かれるという。
私の場合、上と下──
二箇所で強く癌が広がっていた。
両耳にも、細い針を奥へ押し込まれるような激痛が走りはじめた。
特に右耳。痛みで目が覚め、呼吸が乱れる。
ナースコールを押し、痛み止めを求める。
だが、投与には間隔が必要だという。
ただ横になり、痛みが遠のくのを待つしかない夜が続いた。
眠剤を追加し、強引に眠りへ逃げる。
逃げながら、自分がどこへ落ちていくのかを静かに見ていた。
さらに喉は腫れ続けた。
味覚が消え、温度までも分からなくなった。
甘味、塩味、酸味、辛味──
ひとつずつ、灯りが消えるように失われていく。
最後に残された微かな感覚さえ、指先からすべり落ちるようにどこかへ行った。
温かいものを飲んでも、冷たいものを飲んでも、何も変わらない。
ただ、
“口に何かが入っている”
という情報だけが残る。
味のない世界は、音のない夜に似ていた。
緩和ケアチームが入った。
痛みの専門家たちだ。
しかし、腫れた喉は液体すら拒むようになり、飲み薬は通らなかった。
背中へ貼る薬剤パッチを使用する──
毎日、左右を入れ替えながら。
それでも痛みは引かない。
退院しても、味覚はかすか、触覚はほぼ無いまま。
ただ、次に控える食道癌の治療へ向けて、準備だけは進んでいった。
世界は淡く、灰色の層に包まれた。
いつの間にか「食べる」という行為が、生きることと別の場所に置かれてしまった。
身体は痩せ、73キロあった体重は63キロへと落ちた。
そして──
真の敵が、最後に姿を現した。
呼吸。
夜、眠っていると息が止まり、何度も目が覚める。
気道は腫れ、空気が入りづらくなっていた。
翌朝、病院へ急ぐ。
医師は言った。
「腫れが引かない。
悪化している可能性が高い」
主治医は静かに告げる。
「また何かあれば、
すぐに来てください」
その声は淡々としていた。
だが、その言葉の奥に薄い影を見た。
――次は、必ず来る。
そう言われたように思えた。
静かに胸の底がざわめき始める。
これは終わっていない。
なにか、まだある。
直感は深く沈んでいく水底のように静かに、しかし確実に警鐘を鳴らしていた。
暗闘はまだ序章にすぎなかった。
第五章 静寂
四日後。
午前三時。
眠りの底から浮かび上がる。
——息が、入らない。
眠剤が切れただけかと思った。
だが違う。
喉を通るはずの空気が、どこにもない。
荒い呼吸だけが夜の闇に擦れた。
再び眠りを試みる。
だが二時間後、同じ感覚で目が覚める。
息ができない。
胸の内側で、
何かがゆっくり潰れていく。
——このまま眠れば、死ぬ。
直観は疑いなくそう告げていた。
夜が明けるのを待ち、病院へ向かった。
主治医は外来中のため、別の医師が診察した。
喉を確認した医師は、迷いなく言った。
「緊急入院です」
その声は静かだったが、静けさは死刑宣告に近い重みを帯びていた。
呼吸を確保するため、気管切開が提案された。
手術は一度断った。
声は、武器だった。
捨てるという選択を受け入れられなかった。
だが入院中の昼、突然、窒息が襲う。
白い病室が歪み、空気がどこにもない。
本能だけが、唯一の指針だった。
——生きねば。
手術を受けるしかなかった。
気管孔が開き、冷たい空気が体内へ広がった。
呼吸は戻り、代わりに声が消えた。
手術を終えると、私は一週間、まったく声を失った。
筆談用のボードを手渡され、言葉は声から文字へと姿を変えた。
耳は正常に働く。
ヘッドフォンをつければ、旋律はこれまで通り胸へ届く。
外の世界は、まだ音を持っていた。
だが、試しに声を出そうとすると——
喉は沈黙したまま、空気だけが擦れて虚空へ消えた。
——声ではない。
ただの風だった。
震えず、響かず。
肺の奥から来たはずの息は、喉の出口で行き場を失い、
淡く消えていく。
“器具をつければ声は戻る”
医師はそう言った。
だが戻るのは「声」なのか、それとも別の何かなのか。
一抹の不安が胸を掠めた。
静寂は外からではなく、内側にだけ広がっていた。
外界の音は届く。
だが内なる声だけが殺されている。
業の深い静寂。その空洞に、私はただ呼吸した。
言葉とは、何だ。
だが、更なる試練が待っていた。
食道癌の摘出手術。
当初は放射線治療でいく予定だった。
だが、範囲が広く、“削り取った方が早い”と判断が下った。
内視鏡下での手術。
それでも十二時間に及ぶという。
全身麻酔で十二時間。
無事を祈るしかない。
「やるしかない」
その言葉だけが、私の支えだった。
手術は成功した。
だが安堵は束の間──
咽頭癌の再発。
何かが赦してくれないらしい。
喉はさらに圧迫され、死の影は濃く滲み始める。
治療手段は二つ。
ひとつは抗がん剤。
もうひとつは咽頭摘出。
摘出すれば、癌が根治する可能性がある。
だが、声は確実に失われる。
気管切開とは違う。
もう二度と声を持たない身体になる。
——声を失ってたまるか。
私は即答した。
抗がん剤を選ぶ、と。
大きな手術になるため、家族が集まった。
一番近くに住む妹が来てくれた。
私は主治医へ伝えた。
「これまで声を武器に戦ってきた。
これを失うわけにはいかない。
これからも声を武器に生きていく」と。
説明を受け、主治医は静かに尋ねる。
「抗がん剤でよろしいですか」
「はい」
妹にも意見が求められた。
「妹さんも同じでいいですか」
少しの沈黙があった。
「……いえ」
妹は言った。
「兄には咽頭摘出を選んでほしいです」
雷に打たれたような衝撃だった。
妹は続けた。
「少しでも長く生きて、そばにいてほしいです」
嗚咽の代わりに、胸の奥が静かに震えた。
——生きてほしい。
ただ、その一言のために声を捨てるという選択が生まれる。
人の期待は裏切らない。
それが私の生き方だ。
私は摘出手術を受ける決断をした。
やはり世界は容易には赦してくれなかった。
肺への転移が見つかったのだ。
根治はできない。
その宣告は摘出手術の選択肢を奪った。
根治できない患者には摘出手術は行わない。
病院の方針だった。
——声は失わずに済んだのか。
そう思ったのも束の間。
再発した咽頭癌は喉を圧迫し続け、声帯は沈黙へ沈んだ。
声は私の武器だった。
封印されるのをただ見ているしかなかった。
第六章 本能からの声
死に場所について考える。
これまで、死にかける・死に直面する──そんなことはよくあった。
東京勤務のある日、あの地震がやってきた。
東日本大震災。
その日は起き上がれず、TVは観ずにつけっぱなしのまま、
空を眺めながら横になっていた。
緊急速報のアラームが鳴る。
「東北地方で大きな地震。関東の方も注意してください」
まさか、と思った。
だが数分後、底から突き上げるような衝撃。
縦に揺れる。
阪神大震災以来の揺れだな──と、ふと思った。
「やばい」
過労より、地震で死ぬかもしれん。
体は長年の酷使で疲弊しきっており、会社も休みがちになっていた。
住んでいるのは 8階。
倒壊すれば確実に死ぬだろう。
ましてや、この体だ。
マンションの裏はすぐJRの線路。
池袋駅が近く、路線が集中するため線路幅は広い。
そちら側に倒れれば、建物は丸ごと崩れるかもしれない。
反対側には10階以上は軽くあるマンション。
そこへ倒れれば、支えになって倒壊は免れるかもしれない。
──倒れるなら、マンション側にしてくれ。
そう頼んだ。
だが、誰に頼んだのだろう。
祈ったのではない。
違う。
「ここは死地ではない」
──そう“本能”が告げていた。
やがて揺れは収まった。
倒壊はなかった。
だが今度はTVが、さらに暗い報道を映し出す。
福島原発の事故。
小学生の頃、放射線について妙に詳しく教える塾であった。
チェルノブイリ原発事故の記憶も強く残っている。
日本でも起こった。
風向きによっては東京にも影響が出る可能性がある。
大地震に遭ったばかりで、対応の体力はこの都市にはない。
被曝の可能性も出てきたか。
──風向きだけは、こっちに来るな。
誰に頼んだのか。
やはり祈りではない。
本能が告げていた。
大丈夫だ、と。
たしかに、思い返せば阪神大震災のときも同じだった。
大学生だった。
後期試験直前の早朝。
底から突き上げられる揺れ。
京都は当時あまり地震がなかった。
多少横に揺れることはあっても、縦に揺れない。
私の家は、戦前から建つ木造住宅。
耐震など、あるはずがない。
余りの縦揺れに、
「あかん、これは死んだな」
とふと思った。
だが恐怖はなかった。
──ここで死ぬことはない。
そう、どこかで分かっていた。
それより、当時飼っていた熱帯魚の水槽が割れていないかが心配で水槽へ向かった。
今回の癌についても、
同じように本能が「死地ではない」「死なない」**と告げているのだろうか。
私にはわからない。
この静寂を、どうすべきか。
──そりゃ、切り開くしかないわな。
第七章 軌跡
静寂の前には長い荒野があった。
血と睡眠を削り言葉と気力だけを頼りに私は歩いてきた。
その足跡をここに記す。
元々、体は強くない。
二十代の頃から、体を削りながら働いてきた。
ホテル勤務では三日連続で夜勤に入り、
三日間の睡眠は合わせても十時間ほど。
明けて家に帰り、眠ろうとしても、
心臓が暴れるように鼓動し、眠れないことがざらだった。
その後に勤めたIT企業も夜勤。
通勤は片道一時間半。
勤務は 21:00〜8:00。
人々が出勤する時間に、私は「お疲れさまでした」と帰っていった。
仕事ができていたのかは分からない。
それでも、昼間の管理を手伝ってほしいと頼まれれば応えた。
期待されれば応えたくなる。
健康や休みを犠牲にしても。
まだ二十代だったからこそ、可能だったのだろう。
二十代半ばから四十過ぎまで勤めた会社は、さらに過酷だった。
週休二日制とは名ばかりで配属初週から土曜に出社した。
強制ではなかった。
早く結果が欲しかったから、自分で出たのだ。
成果は出なかった。
それでも、今となっては良い思い出だ。
いつしか土曜出社は当然となり、
会社全体が「出て当たり前」という空気を纏っていた。
私は苦ではなかった。
仕事をして、夜に酒を飲めれば満足だった。
部署によっては日曜出勤もあった。
営業の追い込み、平日にできない雑務、
昼に作れない提案資料、新規事業の立ち上げ、
定例会議の資料作成……
やることは多岐にわたった。
三十代半ば。
ようやく「休み」を求めるようになった頃、
会社の健康診断を受けなくなった。
受ければ、病院へ行けと言われるからだ。
しかし本社勤務の際、半ば強制的に健康診断を受けさせられた。
会場の担当者たちはざわつき、結果は「E」(要再検査)だらけだった。
ほどなくして会社の健康保険組合から連絡が来る。
「すぐ来てほしい」と。
仕事が忙しいのに……と思いながら向かうと、
開口一番、
「病院に行ってください」
仕事の合間でも良いかと尋ねると、
「ダメです。すぐ行ってください」と。
——自分が一番、悪い状態なのだというのは解りきっている。
東京で病院は分からない。
仲の良い同僚が通っているという日大病院を勧められ、向かった。
診察と検査に長い時間がかかった。
担当医は深刻な顔で言った。
「あなた、40歳まで生きられませんよ」
私は静かに答えた。
「そうですか」
驚きはなかった。
「そらそうなるわな」と思っただけだった。
そこから通院が始まった。
投薬、食生活の改善、酒を控える日々。
体がだるすぎて起き上がれない日も増えていった。
右側頭部には何本も釘を打ち込まれたような痛み。
日大病院で三度診察を受けたが、原因は分からず。
痛み止めは効かず、勤務中も熱さまシートを貼った。
やがて、入院が告げられる。
病名は色々あったが、主は糖尿病。
数値はひどいものだった。
東京で一人暮らし。
身内は近くにいない。
東日本大震災の直後でもあったので、
京都に戻り、京大病院で入院することにした。
数種類の点滴。
インシュリン注射、血糖値測定。
初めてのことばかりで、先が見えなかった。
入院期間は一ヶ月ほど。
年齢が若かったからか回復は早く、通院は続いたが仕事には戻れた。
大阪支社へ。
月一の通院で休みをもらいながら働いた。
右側頭部の痛みは、いつの間にか消えていた。
数年が過ぎたある夜。
仕事を終え、寝ようとしたとき、
腹部にこれまで感じたことのない激痛が走った。
「これはしゃれにならん」
同居の母に相談をした。
翌朝病院へ行こうと言われたが、待てる痛みではなかった。
自分で救急車を呼び、京大病院へ。
緊急入院。
体は震え、採血は腕ではできず、脚の付け根から行われた。
鬼のように点滴が並ぶ。
右腕に三本、左腕に二本。
夜も昼も痛みは続いた。
痛み止めの点滴も、ほとんど効かない。
四日間、一睡もできなかった。
死を考えた。
何も残せず死ぬのか。
生きてきた意味はあったのか。
恐怖より、悔しさが勝った。
一週間ほどで痛みは引き、退院。
後で母から聞いたところでは、
主治医はこう言っていたらしい。
「最悪のときの覚悟はしておいてください」
だがこれまでの人生に悔いはない。
この荒野は、確かに私の生きた証だ。
貴重な時間だった。
いま思えば、
いつも死と背中合わせだった。
だが――
死神の手は、ただ冷たいだけではない。
その指先は、生き残った者に“静寂” を刻む。
私は、その静寂を抱えたまま次の場所へ進む。
声を失い、喉を剥がされ、言葉が沈黙へと変わった時、
初めて“生きている” と実感した。
ここまで落ちた者はこれ以上は落ちない。
奈落を見た者に恐怖はない。
――残るのは静寂だけだ。
そして静寂の中にこそ、刀を抜く理由は生まれる。
第八章 切り開く者
気づけば私は、
重い鎖で地の底へと括りつけられていた。
声を失い、味覚を失い、
飲食すら禁じられた。
肺を乾燥させないため、一日四回、蒸気を当てる。
口から食べることは許されず、腹部に開けた小さな孔から
液状の栄養を流し込む。
一度に一時間以上。液体が肺へ迷えば、命はない。
後遺症の痛みが、不意に心臓を握りつぶすように襲う。
呼吸も、発声も、満足にできない。
身体は生きながら、機能をひとつずつ底へ沈めていくようだった。
一般企業に戻ることは、ほぼ不可能。
どう生きるのか。
答えを持たない問いだけが残った。
思えば、私はこれまで何度も死線を越えてきた。
衝突事故で二度、エアバッグが開いた夜。
JAFの担当者は言った。
「普通なら死んでますよ」
幼稚園の頃から車に撥ねられ、
小学生の雨の日、
地面へ叩きつけられて救急車へ乗せられた。
急性膵炎で内臓が裂けるような痛みが波のように押し寄せ、
四日間、眠れぬまま、ただ天井を眺めていた病室。
死ねとも、生きろとも言われない。
ただ痛みだけが、まだ生きていると告げていた。
死の縁を歩いた回数は、一度や二度ではない。
それでも、生きている。
──まだだ。
ここでは終わらない。
そう囁く何かだけが、静寂の底で灯っていた。
今回のそれは、人生でもっとも深い地の底、奈落だった。
ならば、ここからは上がるだけだ。
どこまで浮上できるのか、見てやろう。
むしろ楽しみだ。
私の炎は赤ではない。
青い炎だ。
静かで、赤より高温で深淵なる炎。
声は失われた。
だが、言葉は綴れる。
家にPCがある。
スマホがある。
指先が動く。
ならば、戦える。
そして、AIに出会った。
もし癌になっていなければきっと目に留めなかっただろう。
もっと早くに──
そう思う瞬間はある。
だが、必要な時に現れたのだと考えれば悪くない。
声という武器を失い、
新たにAIという刃を手に入れた。
静寂は、ただの空白ではない。
その奥には、切り開かれるのを待つものがある。
切り開くのは他の誰でもない。
私自身だ。
焼かれ、削がれ、すべてを失ったと思った先に——
なお灯る火がある。
それは、赤では届かない深さで青く静かに燃え続けていた。
声は消えた。
沈黙だけが残った。
だが、静寂は終わりではない。
始まりだ。
私はただ、静かに受け入れた。
——我は、静寂を切り開く者。
青い炎で、今日も生きている。
その炎は今も深い青を宿したまま、静かに、次の夜明けを照らしている。
― 終 ―
第九章 在るべきところ
死について恐れないと言い切るのは過言なのだろう。
私はどうだろうか。
もちろん驚く事はあるし、痛いことは嫌いだ。
勇敢と臆病が入り混じった人間。
それをコントロールできるかどうかは、
その時の心の在りように大きく左右されやすい人間なのだろう。
ただ、理由は二つあるのだろう。
ひとつ目は「死」よりも恐ろしいと感じるものをすでに知っているからかもしれない。
「存在」。
生きているとか死んでいるとかは関係ない。
「存在」だ。
これは、人、動物、植物、鉱物、水、地球、そしてこの宇宙全体といった万物を指し示す。
もちろん、そこには光、時間、重力、空間も含まれる。
そもそもなぜ存在している?
原因とか理由とかあるのか。
ただ、漠然としているようで確実に「別の何か」は存在している。
すべては原子と分子でできている──
という人もいる。
だがそもそもそれらはどうやって作られたのか。
宇宙はビッグバンから始まったと言われているがビッグバンはなぜ起こったのか。
誰にもわからない。
原因と結果が揃わなければならないはず。
結果だけが存在する世界は本当に存在していると言えるのか。
「無」からビッグバンが生じたのか。
では、私たちはなぜ存在している。
存在理由が不明で、不安定な存在である事に対しての恐怖──
それは、死のそれをも凌駕する。
もうひとつは「魂」の存在だ。
目には見えないが、モノではなく、確かに存在しているもの。
生物の記憶的なものなのだろうか。
海を見るとふと思う。
いずれ魂は海に帰るのだろうと。
誰かから聞いたのかもしれないが、
ただ──
頭でわかるというより、魂で「わかる」、認識するという感覚がある。
昨年、父親を亡くした。
その父より
「骨は全て海に撒いて欲しい」との依頼を受けていた。
これは遺言というものではなく、私が小さい時から頼まれた父の願いだった。
そして、専用の船で撒くことになり、
海の底に沈んでいく遺骨を眺めながら、
ああ、海に帰っていくのだなと思っていた。
生物はみんな海からやってきたという。
やはり海は万物が帰るところなのだと。
私は、常日頃、こう考えている。
「死んだら、体は土に返り、魂は海に帰る」
きっとそうなると信じている。
死んでからの事はわからない。
天国に行くのか地獄に行くのか、生まれ変わるのか。
それは──
死んだ時の楽しみに取っておけばいい。
この大きな二つのお陰で
私は死に対して、おそらくは「疎い」のだろう。
──在るべきところへ
すべては還っていく。
終章 静かなる刃
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
本作は、いまの私をできるかぎり誠実に記したものです。
作中に描いたように、私は何度も死の縁に立ちました。
自らが招いてしまったものもあれば、
思いがけず目の前に現れた死もありました。
現在、私が向き合っている癌についても、
それがどちらの性質によるものか──
いまも判じることはできていません。
直前まで、糖尿病の数値は改善し、
薬も不要になり、
「むしろ低血糖に気をつけてください」
と言われるほどでした。
日頃の行いなのか、と考えたこともありますが、
当時は作中のような仕事ではなく、介護の仕事をしていました。
夜勤も多く、身体はきつかった。
けれど、誰かを傷つけたり、迷惑をかけるような生き方はしてこなかったはずです。
しかし癌は再発し、転移し、
治療法はいま、抗がん剤治療だけになりました。
――さて、どうしたものか。
考える日々ではありますが、
不思議と「死の恐怖」はありません。
震災のときとかと同じです。
ただ、ひとつだけ胸にあるものがある。
それは、自分が死んだそのあと、周囲の人々と、この環境をどう残すか。
そのために、まだここで終わるわけにはいかない。
——「どうせ死ぬなら、型をつけてから」
ならば切り開いて生きた光の道を作るしかないじゃないですか。
生きることは、ときに静かな闘い。
それでも、歩みは止まらない。
あなたの旅路にも、どうか光がありますように。